EYESIGHT/INSIGHT - Photography blog by Keisuke Takahashi

タグ:鈴木達朗

先日、富士フイルムの新しいカメラ「X100V」のプロモーションビデオが公開された。プロモーションには鈴木達朗氏が起用され、動画で明らかにされたその撮影スタイルが波紋を呼び、メーカーは動画を削除して謝罪、鈴木氏自身もツィッターを鍵アカウントにする、という事態になった。

僕自身、ストリートスナップを撮る人間でもある(あった)が、色々と思うところあり、写真から距離を置いている。その事とも大いに関係する出来事であったので、久しぶりに記事を書く。

まず、なぜ富士フイルムはこの動画で問題ないと判断したのだろう。
肖像権を巡って、ストリートスナップの是非はここ何年も議論されている。僕自身の個人的な結論は、ストリートスナップに(表社会での)未来はない、ということである。最早、ストリートスナップを撮ることは、一部では犯罪と断定されつつあるのだ。
勿論、現時点でそういう法律が新たに作られたわけではない。だが先々、この手の規制が厳しくなることはあれど、緩くなる事は最早、ないだろう。
そんな中で、カメラメーカーであり、ギャラリー等も擁していて、写真文化自体に詳しいはずである富士フイルムが、この動画を公開することで社会にどういう印象を与えるのか、想像も出来なかったのだろうか。まるで富士フイルムは、一連の議論にとどめを刺して、ストリートスナップを殺したかったのではないか、と思えるくらいだ。
そうではなくて、昨今の大手企業同様、非採算部門は人手が少なく、経験の少ないサラリーマン社員だけで仕事を回した結果がこれなのだろうか。あり得る話ではある。

そして鈴木達朗氏である。彼の写真は世界的に評価されている。その写真がどういう手法で撮られているのかは、あの動画を見るまでもない。遠慮なく言わせてもらうが「犯罪ギリギリ」のところで撮られているのだ。だからこそ評価されている。希少だからだ。
つまり彼のアートというのは、どう考えても「決して表社会に立てない」ものであって、国内で知名度を上げずに海外でやっている分には良いが、日本国内で今回のようなプロモーションがなされれば、どういう事になるのか、彼自身が気づいていないはずはない。なのに、何故この仕事を請けたのか。
それとも、そこまで考えが及ばぬほど生粋の馬鹿で、今までの撮影も全て「本能」のみに突き動かされて「たまたまセーフだった」成果なのか。

いずれも表向きは、一流のカメラメーカーと(あえて言うが)一流のストリートスナッパーだ。もしやるのなら、もう少し策を練って欲しかった。彼らは完全に、あらゆるストリートスナップの道を断ってしまったと言えるだろう。
アサヒカメラでは昨年何度か、ストリートスナップの肖像権に関して記事を組んでいたが、こうなってしまっては最早詭弁でしかないし、もし今後同じ特集を組んでも、犯罪幇助と取られかねないだろう。本当に残念だとしか言えない。

ストリートスナップの使命は、文化を後世に残す事にあると思っている。僕は「昭和の東京」とか、そういう写真集を見るのが好きだ。そこに記録された、当時の街並み、当時の人たちの暮らしぶり、豊かな表情。そういうものは、誰かが残さなければ、決して残らない。
昔は一部のお金持ちだけが、カメラを所有できた。写真家として名を残している人たちは、大概どこかのボンボンである。言ってみれば昔の記録写真というのは全て「上から目線」で残されたものばかりだ。アメリカが日本の統治後に町並みを撮った写真などもいい例だろう。
今はそういう時代ではない。
誰しもが写真を撮る。
殆どの携帯にカメラが搭載されているのだから、街にいる人たちの殆どがカメラを持っている。
そして街中でシャッター音が響いた途端に、通報する人が現れる。

一方で、街のあらゆるところに監視カメラが、車にはドライブレコーダーが備え付けられている。それらのデータはクラウドを介して集められる。それに文句を付ける人はいない。そこには人間の意図が介在しないからだ。そこに意図が介在することに、人は拒絶を示す。
将来のストリートスナップの写真集は、GoogleやAppleが編纂・発行することになるかも知れない。

何故、こんな世の中になってしまったのかといえば、テクノロジーを悪用する人間がいるからである。携帯やアクションカムやドローンで、盗撮を行う人間というのは間違いなく存在するからだ。
そういう人間のせいで、街中でシャッターを切る人間は全て「容疑者」となる。
市井の人間が、同じ市井の人間の「疑わしき」を罰する社会になってしまった。本当に悪事を働いている、例えば政治家のような人間は野放しなのに。

なんて嫌な社会だろう。写真に残す価値はあるのだろうか。僕はこの頃、本当にそう考える。

僕のような人間は、写真に距離を置くことで対応する。だが鈴木氏は逆であった。余計に社会と敵対する。彼の写真の根源にあるのは「怒り」だ。写真を見れば明らかだ。意図を伝えるのがアートの使命だとすれば、彼の作品はだからこそ一流のアートとして評価される。

なので余計に、何故今回の仕事を請けたのか、僕にはさっぱりわからない。こんなことになってしまった以上、彼がこれを続けることは出来ないからだ。もしかするとここいらで、誰かにストップをかけて欲しかったのだろうか。欲求というのはエスカレートするものだ。もっと、もっと、という気持ちが我々を動かす。ストリートスナップを撮ったことのある者ならわかるはずだ。
鈴木氏はアクセルを踏み続けて、止まるに止まれない状態だったのだろうか。そんな勘ぐりもしたくなる。

さて、それでもストリートスナップを撮りたいと思う人がいるのだろうか。はっきり言ってこれは裏稼業だ。表舞台には立てない。逮捕されるかも知れない。それでも価値があると思う人だけが、それをやることが出来る。頭がおかしいと思われようが、キモいと言われようが。
今や、そういう覚悟を持って取り組まなければ、ストリートスナップなど出来ない。

ブレてるくらいがいい。今は。

昨日、酒の席で「(ケイスケさんの)昔の、iPhoneで『攻めてる』感が好きなんですよねえ」と言われた。わかる。言わんとしていることはよくわかる。何故なら暫く攻めてない自覚があるから。むしろ引いてる。
『攻め』はストリートフォトグラフィの大きい要素だ。ストリートフォトグラファーはみんな攻めてる。優れた作品はみんなある意味攻めてる。間違いない。

日本であれ海外であれ、今ストリートフォトグラフィやってる人で鈴木達朗さん知らない人はいないと思うが、あれこそが、僕の思うところの究極の攻めだ。ストリートフォトグラフィを多少なりとも真剣にやった人ならわかる筈だけど、ストリートで撮ってると、もっともっと!となる。そういう欲求・衝動に純粋に忠実に動いた結果としての、究極の表現・究極の攻めのひとつが鈴木さんの写真だと思ってる。鈴木さんはよくパンクを引き合いに出すが、写真から聴こえてくるのはまさにパンクのビートだ。実際揉め事になることも多いと本人も仰っているが、鈴木さんが被写体にズンズン近寄りながらシャッターを押すときの心臓の鼓動、それが写真から聴こえてくる。
そのストレートさ、衝動に忠実なところを写真家のありようとして僕は尊敬するのだけど、翻って自分の表現はどうなのか。自分がカメラを持って、もっともっと、という気持ちが目指してるのは果たして鈴木さんのようなスタイルなのか。
それは多分違う。では違ったとして、自分の目指すとこは何処なんだろう。何を表現したいんだろう。そんなことを思ったあたりから、一度ストリートを離れたくなった。一度全く違うモードでやってみたくなった。来年の自分の展示はそういうことも間違いなく、きっかけの一つとしてあったりする。ストリートではなくセットアップ的。灯台を撮るのだから基本は風景写真のつもりでやってる。でも、被写体は自分、生身の人間だからして、手法は間違いなくストリートで培ったことをベースにしている。オートで撮っている時も、シャッターが落ちるタイミングを耳で追って、今この風景で、自分が何処にフレームインしたらよいのか、俺がシャッター押してたら今押すよ!とか、そんなことを考えながら動いてみたり。そんなこんなでなんとか形にしてみたのが今回の展示。

来年はまたストリートを撮ってみるのか、そしたら今回の成果から何かフィードバックされるものがあるのかどうか。まだ具体的な次のプランは決めていないのだけど、とにかく、生きてるうちに、鈴木さんのように、自分にしか出来ない表現をモノにしたい。願いはそれだけです。


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