今年のお盆は母を連れて、父の墓参りに行った。

思えば、自分の目の前で人が死ぬところを見た記憶があるのは、父だけだ。
もしかしたら母方の祖母の死にも立ち会っていたのかもしれないが、あまりに小さすぎて覚えていない。
父の死は、父の53の誕生日の少し前、自分は23の時だった。悪性リンパ腫だった。

もしかしたら悪い病気かもしれない、という話になって、検査入院をしてから死ぬまでは、半年無かったような気がする。検査入院の前の晩に一緒に風呂に入った事をいまだに思い出す。それから、あっという間に悪化して、あっという間に死んでしまった。

病気が分かってから、もっとも本人には最後までそうだとは伝えなかったが、父は入退院を繰り返した。病院にいるときは煙草が唯一の楽しみで、やたら色々な銘柄を試していた。

最後に家に戻ってきたとき、レンタルビデオを見ようという話になり、何を見るかという話になった。俺はロビン・ウィリアムズ主演の何か、ヒューマンドラマ的な映画を見たがったのだが、父が嫌がった。それで揉めた。
後々思えば、その時の父は、湿っぽい映画ではなく、もっとタフに生き抜く、ダイハードやランボーのような映画を見たかったのだ。そりゃそうだ。俺は若くて阿呆だった。その時の父はとても元気がなく、寂しげに見えた。その時の事を時々思い出して、今でも悔やむ。

その後病院に戻ってからは、家にいたときの見る影もなかった。父は石原裕次郎に憧れていて、実際背も大きく、体格から何から似ていて、声量もあり歌も上手く、ススキノで流しをやっていたこともある程だった。その父が、震えが酷くなって喋れなくなり、モノを書いてもミミズの這うような文字になった。自分は出来る限り仕事を休んで、何日も病院に泊まった。いつどうなっても、ちゃんと見送ってやれるように。

臨終の間際、父は死んでなるものかと言わんばかりに、目を見開き、体を震わせていた。やがてピタリと震えが止まり、それと同時に鼻からツーッと血が流れた。心電図が映画みたいに動かなくなった。それから、医者が時計を見ながら医学的に決められた時間の経過を待ち、改めて脈を確認し、ご臨終です、の一言を告げた。俺はベッドを蹴飛ばしていた。

父が死んだ後、初めて祖母から、父の子供時代の写真を一枚、見せて貰った。
父の生まれ故郷である北海道の岩内という町は昔、町中を焼き尽くす大火に見舞われ、父の写真は殆ど焼けてしまったのだ。というか、その一枚を見せられるまで、父の写真はないものと聞いていたから、ビックリした。自分は父が30になるかならないかの時の子供だから、生まれたときから父の死まで、自分より若い父の姿というものを見ずに育って来たのだから、何だか奇妙な感じであった。

今現在既に、自分の二人の姉は父よりも年上になり、あと四年もすれば自分も、父が死んだのと同じ年になる。父より長生きする気が、あまりしない。というか想像つかない。

父は苦しみながらも、家族全員に看取られながら死んだ。死の間際、本人にそれが見えていたのかどうかは知らないが、そのことについては幸せだったと思う。

前からそうだが、ここ最近はさらに、自分が誰に何を残せるのか、出来れば何かを残したい、という気持ちが強まっているように感じる。血の繋がった誰かでないにしても、生きた証として誰かに、何かを残して行けるようでありたいと願う。そういう人生を歩みたいと願う。

23の自分は、まだ結婚もしていなかったし子供もいなかったし、当然離婚もしてないわけで、当時はちょうど、最初の転職をした頃だった。父が死んでからずっと、今なら聞きたい事が山ほどあるのにと思い続けているが、いないので仕方ない。それでも、こんな時、父ならどうしただろうなと考えることが、たまにある。そうやって親というものは、傍にいなくともずっと親として、心の中に残っていくものなのだろう。