EYESIGHT/INSIGHT - Photography blog by Keisuke Takahashi

タグ:人生


というのはエレカシの「Starting Over」というアルバムに収録されている「こうして部屋で寝転んでるとまるで死ぬのを待ってるみたい」という超名曲の一節でありまして、良さを語り尽くせないので気になった人は聴いてみてください。

さて何で急にそんな歌詞の引用をしたかというと今日。まさに今日。友達とLINEでやりとりしてて過去の自分を振り返る事がありそこでつくづく、俺の人生、ホントメチャメチャだなあと思いまして。

問題というか、対処すべき事が生じたとして、自分、仕事でも何でもそうなんだけど、ある意味結果のためには手段を選ばない、みたいなとこがあって、あんまり後先の事を考えなかったりする、事が多いな、と。つくづく感じた。

そんなんでも48迄は生きてこられたけど、ちゅうかもうすぐ49になっちゃうけど。49歳。始終臭い。どうなのかなあ、あと2年くらい、50までが限度なんじゃないかなあと、何となく想う。人生が羽生名人だったらとっくに30歳くらいで王手をかけられて積んでたんだと思うんだけども、俺がのらりくらり強いのか人生が弱いのか、連続で王手王手かけられてるのは間違いないんだが決め手に欠ける、みたいなね。でもいい加減ヤバいんじゃないすかね。

とはいえまだ、やり尽くしていない事があるので、くたばる訳には行かないのだが。
そんな風に考えてたら冒頭の一節が頭に鳴り響きました。
まあ神社とか行って自分のことばかりお願いする奴は運気が下がるらしいけどね!

写真は去年の今頃行った海の記憶。夏だね。



今年のお盆は母を連れて、父の墓参りに行った。

思えば、自分の目の前で人が死ぬところを見た記憶があるのは、父だけだ。
もしかしたら母方の祖母の死にも立ち会っていたのかもしれないが、あまりに小さすぎて覚えていない。
父の死は、父の53の誕生日の少し前、自分は23の時だった。悪性リンパ腫だった。

もしかしたら悪い病気かもしれない、という話になって、検査入院をしてから死ぬまでは、半年無かったような気がする。検査入院の前の晩に一緒に風呂に入った事をいまだに思い出す。それから、あっという間に悪化して、あっという間に死んでしまった。

病気が分かってから、もっとも本人には最後までそうだとは伝えなかったが、父は入退院を繰り返した。病院にいるときは煙草が唯一の楽しみで、やたら色々な銘柄を試していた。

最後に家に戻ってきたとき、レンタルビデオを見ようという話になり、何を見るかという話になった。俺はロビン・ウィリアムズ主演の何か、ヒューマンドラマ的な映画を見たがったのだが、父が嫌がった。それで揉めた。
後々思えば、その時の父は、湿っぽい映画ではなく、もっとタフに生き抜く、ダイハードやランボーのような映画を見たかったのだ。そりゃそうだ。俺は若くて阿呆だった。その時の父はとても元気がなく、寂しげに見えた。その時の事を時々思い出して、今でも悔やむ。

その後病院に戻ってからは、家にいたときの見る影もなかった。父は石原裕次郎に憧れていて、実際背も大きく、体格から何から似ていて、声量もあり歌も上手く、ススキノで流しをやっていたこともある程だった。その父が、震えが酷くなって喋れなくなり、モノを書いてもミミズの這うような文字になった。自分は出来る限り仕事を休んで、何日も病院に泊まった。いつどうなっても、ちゃんと見送ってやれるように。

臨終の間際、父は死んでなるものかと言わんばかりに、目を見開き、体を震わせていた。やがてピタリと震えが止まり、それと同時に鼻からツーッと血が流れた。心電図が映画みたいに動かなくなった。それから、医者が時計を見ながら医学的に決められた時間の経過を待ち、改めて脈を確認し、ご臨終です、の一言を告げた。俺はベッドを蹴飛ばしていた。

父が死んだ後、初めて祖母から、父の子供時代の写真を一枚、見せて貰った。
父の生まれ故郷である北海道の岩内という町は昔、町中を焼き尽くす大火に見舞われ、父の写真は殆ど焼けてしまったのだ。というか、その一枚を見せられるまで、父の写真はないものと聞いていたから、ビックリした。自分は父が30になるかならないかの時の子供だから、生まれたときから父の死まで、自分より若い父の姿というものを見ずに育って来たのだから、何だか奇妙な感じであった。

今現在既に、自分の二人の姉は父よりも年上になり、あと四年もすれば自分も、父が死んだのと同じ年になる。父より長生きする気が、あまりしない。というか想像つかない。

父は苦しみながらも、家族全員に看取られながら死んだ。死の間際、本人にそれが見えていたのかどうかは知らないが、そのことについては幸せだったと思う。

前からそうだが、ここ最近はさらに、自分が誰に何を残せるのか、出来れば何かを残したい、という気持ちが強まっているように感じる。血の繋がった誰かでないにしても、生きた証として誰かに、何かを残して行けるようでありたいと願う。そういう人生を歩みたいと願う。

23の自分は、まだ結婚もしていなかったし子供もいなかったし、当然離婚もしてないわけで、当時はちょうど、最初の転職をした頃だった。父が死んでからずっと、今なら聞きたい事が山ほどあるのにと思い続けているが、いないので仕方ない。それでも、こんな時、父ならどうしただろうなと考えることが、たまにある。そうやって親というものは、傍にいなくともずっと親として、心の中に残っていくものなのだろう。




20代の始めの頃かな。
「美味しいものを食べて幸せとか言うようになったら人生おしまいだわ」とか、そういうことをいちいち言う若者だったよね、俺。

歳を取って、人間丸くなって、「気の許せる友と美味しいものを食べてる時は幸せだな」くらい、普通に思うようになったけども。

でも最近、そんなんでいいのか?っていう気持ちにまた、戻りつつあり。


それと。

写真を撮ることを自分の表現として選択している人の口から、写真を撮るということは「日常」を記録すること、「思い出」を記録すること、という言葉が発せられるのを散見するのだけども、それに関して、そういう思い入れは、自分にとっては写真始めた時から一貫して、露ほども、ない。

何故なら写真も録音も、記録だということは言葉にするまでもない自明の事なのであって、例えばディランがアルバム「ブロンズ・オン・ブロンズ」について「20代の思い出が蘇るね」なんて語るだろうか、いや語って欲しくないな。

しかしながら、大多数の人と考えが異なるということはつまり「共感」を得るのはむつかしい、って事で、だとすれば勢い圧倒的なものを目指すよりなさそうで。
まあ、それはずっと変わらない。それが何なのかをずっと考えて取り組んでる。


こういう考え方は「天の邪鬼」と言われかねないのはわかる。けど、これ以上説明するのもアレだし、まあいつの日か結果に表せたら、それでいいことだ。ただの表現だから。

なんて、ただの細胞のカタマリの、ただの心の移り変わり。進化でも退化でもなく。人生の徒然。




どんな気分だ
どんな気分なんだい
ただの自分でいるってことはさ
帰る家もなくてさ
誰にも知られることなく 石ころみたいだっていうのはさ

ディランに心酔していたのは20代から30代の始めの頃まで。
ディランとジミヘンしか聴かない、みたいな時期もあったな。

ディランの詩はいい。その視点の独自さに舌を巻いてばかりだった。
だけど彼の代表曲のひとつ、『ライク・ア・ローリング・ストーン』に関しては、若いうちはどこか遠い国のお伽話を聞くような気持ちだった。


時は流れて。状況も変わり。
48年生きて、今ではこの曲の歌詞が心に刺さる。

何も持ってないなら失うものもないよな
お前は今や透明人間
隠さなきゃならない秘密すら持っちゃいない


写真はお休み、と前回書いたのにはそれなりにわけがあり、まあいったらあらゆる事に嫌気がさした。それでも写真は自分にとっては唯一ほんの少し残された可能性みたいなもので。


というのはこれ以外はホントにろくでもない人生で、これくらいしか出来ることもやりたいこともないわけで。


ただ、ここに来て大きく意識が変わった。カメラを全部売ってしまおうかなと考え始めてる。  
もう一度イチからやり直すか、と。そういう感じ。



写真は全てここひと月くらいのiPhone写真。アプリはCamera1。


何かこれだけで戦える気がするんだよね。人生は戦いですよ。他人はどうだか知らんが、自分にとっては、生き残り戦なんです。


ポートフォリオサイトにギャラリー追加しました。プリント購入もできます。宜しくお願いいたします。

このページのトップヘ