EYESIGHT/INSIGHT - Photography blog by Keisuke Takahashi

カテゴリ: 人生


ある青年が女の子に恋をした。彼女は青年の友人の、所謂元カノだった。そのせいで青年は友人達に悪く言われる日々もあったが、彼女のことを本気で好きになった。

だが彼女には他にも好きな男の子がいた。決してどちらかに決めるという事は無かった。寧ろ、もう一人の男の子の方が好きだったのだろう。少なくとも、その青年ただ一人を愛することは無かった。


青年はそういう状況に耐えられなくなり、彼女と会うのをやめた。

やがて他の女の子と知り合い、それは必ずしも彼の理想の女の子では無かったかも知れないが、その娘と暮らすことが、違う自分へと踏み出す機会になると信じた。そして、その娘と結婚し、家庭を築いた。

その娘には少し、難しいところがあった。それでも、長く連れ添うことで、お互いの隙間が埋まってくるだろうと、彼は信じた。だがそれは年月を経て、寧ろ大きな溝となった。結局、夫婦の仲は破綻し、彼は再び独りになった。


二十数年も経ってから、彼は再び冒頭の女の子と再会する。あれから色々あった。全ては過去のこととなった今なら、彼女も自分を受け入れてくれるのではなかろうか、と。

だが彼女は相変わらずだった。彼女には彼氏がいて、それでも彼は彼女と会い続けるのだが、それは、過去のそれと何も変わらなかった。


そうではない、と信じたくてそんな日々を続けていたある日、全くの偶然で、彼は旧友と再会してしまう。その旧友とは誰でもない、若き日の青年の友人、その彼女の元彼であった。彼は、青年が結婚した頃に事故で昏睡状態となり、目覚めた時にはある時点より過去の記憶を失ってしまった。彼の頭に残っているのは、その彼女と別れる前までの事で、彼は何故目覚めた時に彼女がいなかったのか、彼女との間に何が起きたのかを、青年(といってももう十分中年なわけだが)に問うのだ。その問いはそのまま、彼が忘れたいと思っていた過去の気持ちを、そのまま連れ戻す事となった。


そしてその気持ちと今の気持ちを照らし合わせた時に、彼自身も何も変わっていなかったことを悟った。色々な経験を経て、違う自分になったかのように思っていたのはまるで錯覚で、そう、人は本質的には、何も変わりはしないということを彼は知り、再び、独りに戻るのだった。



という映画を観た。そして映画館を後にした。



そうねえ。人は変われない。長く生きれば、上手くやり過ごす術を身につける事は出来るかも知れない。しかし本質的には、何にも変わりはしない。


太陽の黒点が減少して、地球は再びプチ氷河期になっていくのだそうだ。そんな風に、取り巻く環境が大きく変わって行くとしても、人は変われない。皆、運命の上を滑り降りて行くでしかない。でもそれでいいんじゃないかなと、この頃は思う。焦ることも悩むことも、何もない。只々人生を全うしていくだけだ。





今日は全然写真の話じゃなくて、音楽の話。明日、武道館に観に行くバンドの話。

ザ・コレクターズを知ったのは31年前、1986年のことだった。
高校の同級生の友達だったカズヒコに教えて貰った。カズヒコはコレクターズのメジャーデビュー前に、東京から遥か離れた札幌で、前身バンドのバイクスの音源をラジオで聴いて、その後コレクターズのファンクラブ会員第1号になった男だ。

とは言え俺は当時、ほぼ洋楽しか聴かなかったので、すんなりすぐ気に入った訳ではなかったのだけど、あまりにカズヒコや、当時の友達が何度も聴かせるので、だんだん曲を覚えてしまった。

決定的だったのは、その流れで、カズヒコが"MODS"なるものを教えてくれたことだった。
カズヒコは俺に、モッズカルチャーと関係の深い60年代UKのバンド、フーとスモールフェイセズ、そしてキンクス辺りのテープを編集してくれた。自分ももともとUKロック好きだったし、ツェッペリンやビートルズは聴いていたけど、その辺は聴いたことなかった。70年代の終わり、ストラングラーズやポリスは好きだったけど、ジャムはピンと来なかった。
というわけで俺の中にモッズ関係はすっぽり抜け落ちていたのだけど、86年に突然、俺にモッズカルチャーの波が来た。
それらを経て、その意匠がサウンドに色濃く漂うコレクターズも、大好きになった。

コレクターズが最初に、札幌のペニーレインでライブをやったとき、当時知り合いだった怒髪天の増子さんが、バリバリのモッズファッションで来ていたことを思い出す。当時増子さんは既に怒髪天をやっていたから、普段モッズファッションなんか勿論してなかったけども、その日は確か、白シャツに黒の細身のタイ、エンジ色のジャケットにアーミーパーカー羽織って、髪を下ろして、さらば青春の光のジミーばりに決めていた。若かりし頃の増子さんの詩には、モッズカルチャーを描いた映画、さらば青春の光にインスパイアされた「ジミーのように 海になりたい」なんて歌詞もあったから何の不思議もなかったんだけども、普段とのギャップでやけにおかしかったことを思い出す。

それからコレクターズが札幌でライブをやるときは必ず行った。当時、まだ札幌に住んでいたピロウズのさわおくん(カズヒコの高校の同級生だった)が、コレクターズ関係の本で当時の話をするに「普段どこにいるのかわかんないんだけど、コレクターズのライブになるとモッズがどこからともなく集まる」とよく言っているが、そのうちの一人が俺だった。(レコレコとかよくいたんだけどね?)

コレクターズはその後もなかなかブレイクしなかったから、札幌ツアーも予算的にしんどくなっていたのだと思う。だんだん札幌に来る回数が減ってきていた。


その後最初のメンバーチェンジがあり、俺自身も個人的な色々があり、そんな中、コレクターズは突然「世界を止めて」という曲をスマッシュヒットさせる。これが入っている「UFO CLUV」というアルバムは、コレクターズに大して興味なかったうちの姉ですら、CDを買っていたくらいだから、大ヒットとは言わずとも、そこそこ売れていたんだろうと思う。

そして次のアルバム「CANDYMAN」が大々的にプロモーションされて、札幌のFMノースウェイブからシングル「MOON LOVE CHILD」がよく流れるのを聴いて、もういいかな、と、コレクターズを離れた。


とはいえその後、コレクターズがスター街道を突き進んだかというと、そんなことはなかった。
俺自身もサラリーマンになって、転職して転職して、結婚して離婚して、色々だった。
そんな中コレクターズは、レコード会社との契約が切れようが、事務所が潰れようが、大ヒットに恵まれ無かろうが、一度も止めることなくバンドを続けてきた。

そんなある日、コレクターズの「地球の歩き方」というアルバムを聴く機会があった。これはちょうど3.11の震災の最中作られたアルバムだったということもあろうが、そこに居たのは昔のナイーブな青年の面影をほんの少しだけ残しつつも、もっとタフなグルーブを持ったロックバンドに、化けていた。
それをきっかけにコレクターズを追ってみると、なんだかいつの間にかポッドキャストの番組「池袋交差点24時」が、ランキング1位の人気番組になっていたことを知った。

実はリーダー加藤さんとコータローさんの話は、昔から面白かった。ただ昔と決定的に違うのは、今のポッドキャストのリスナーには想像が難しいかも知れないが昔は、コータローさんは気さくに話しかけられる感じだったが、加藤さんはとてもとても話しかけられる雰囲気ではなかったという事だ。すげえ怖いオーラ全開だった。

そんな加藤さんがあんないい人っぽく馬鹿話をしている。それくらい、30年というのは、長い月日だ。さすがに。


そして明日、2017年3月1日、コレクターズは30年目にしてバンド結成初の日本武道館単独コンサートを行う。
タイトルこそ「MARCH OF THE MODS」と名打たれているものの、今のコレクターズは良くも悪くもゴリゴリのモッズバンドではないし、音楽自体もっと間口が広く、懐の広いロックになった。(決してソフトになったとか、柔になったとか、そういう意味ではない)
だから本当は、今までコレクターズのライブを観たことがない人にこそ、明日は観て貰いたい。こんなロックバンドは今のところ日本にいないのだから。

それでも俺個人は、ここに書いたような昔の思い出を沢山抱えた今の俺で、このライブを観に行きます。泣いても許してください。
そしてそれが終わればまた、俺は俺の人生を力強く歩んで行きたいです。夢を諦めずに頑張り続けているコレクターズや怒髪天、ピロウズのさわおくんのように。

月がとても無口な夜 錆びた線路に耳を当てて 
カーニバルが来るのを待った 必ず来るって信じていた
君は待てずに ここを飛び出した
もう少しだけ 僕はここで 時計の針を 止めて待ってよう

〜カーニバルがやって来る Written by 加藤ひさし





酷いニュースだと思う。
こんな境遇の子供を苛めた罪は重い。それは弁護のしようがない。だが苛めている方にも、何らか理由があろうという気もしなくもない。

この子供達がどうかは知らないが、昨今夜出歩けば、例えばファミレスでご飯食べてる時でもいい、とにかく夜、子供の姿をよく見る。
夜の8時や9時まで、塾だなんだと、子供が外を出歩くなんて、異常だ。
誰がこんな世の中をデザインしたのか。我々大人全員だ。馴れ合いの仕事でダラダラ残業して、電車の中で隣の人を肘で押しやってはスマホの世界に食い入るように没頭して、自分の娯楽だけ追求する、ネットを見れば誰かの不倫やら失言やらをイナゴみたいによってたかって叩く、テレビを見れば下らない芸人が暴言吐いて笑いをとる。
そして子供達には、そんな風になって欲しくないと、勉強させる、そんな我々大人全員全てが、今の世の中を作ってる。
今の子供達は、そういう事全ての成れの果ての世界に、乗らざるを得ない。

今、自分の子供に何を教えたいだろう。何か一つ大事なことを教えるとしたら何だろう。

今自分はこう思う。
「人の痛みをわかる人間になれ」と。

人の痛みをどうにかしてあげろなんてことは要求しない。できない。この歳になれば分かるが、自分のことだけで精一杯だ。人のことをどうにかしてあげられるのは、時間やお金に余裕のある人間か、余程の人格者だけだ。
だけどせめて、人の痛みをわかってあげられるようになって欲しい。自分とは立場の違う人の痛み。自分がその状況に陥った時にどうなるか想像できる力。共感してあげられる心。

写真でも何でも、表現行為が人の考えや行動に関与しようなんて考えると、だいたいロクなものにはならない。だけどもしも可能なのであれば、自分の表現がそういう事に向かわせる力になれたとしたら、いいと思う。人の痛みをわかるための何かに。ゆくゆくそういうものになっていけばいいと思う。

まだまだ表現力が伴わない。まだ今は、心の痛みの上っ面をなんとなく絵にしているだけだ。でもその先に目指すべきところは、そういうところだと思う。だって、自分が生涯かけて伝えたいことがあるとしたら、つまるところそういうことなのだから。




答えのない堂々巡りの深みにすぐ嵌まるとことか
ちょっとねじくれてるユーモアのセンスとか
嫌になるとぶち壊したくなる破壊衝動とか

改めたくてもなかなか改められないよ
それが人間だよ
自己啓発の本みたいな訳にはいかないよ

それでいいと思うんだけどね
ただ冬は辛いね、寂しいね
若い頃はこの寂しさも嫌いじゃなかったけどね
買って帰った靴下の梱包を解く時とかね
この歳になるといちいちね、寂しいね

この寂しさと仲良くやっていくのか
麻痺して無視してやっていくのか

それが歳をとるということなのか。





今年のお盆は母を連れて、父の墓参りに行った。

思えば、自分の目の前で人が死ぬところを見た記憶があるのは、父だけだ。
もしかしたら母方の祖母の死にも立ち会っていたのかもしれないが、あまりに小さすぎて覚えていない。
父の死は、父の53の誕生日の少し前、自分は23の時だった。悪性リンパ腫だった。

もしかしたら悪い病気かもしれない、という話になって、検査入院をしてから死ぬまでは、半年無かったような気がする。検査入院の前の晩に一緒に風呂に入った事をいまだに思い出す。それから、あっという間に悪化して、あっという間に死んでしまった。

病気が分かってから、もっとも本人には最後までそうだとは伝えなかったが、父は入退院を繰り返した。病院にいるときは煙草が唯一の楽しみで、やたら色々な銘柄を試していた。

最後に家に戻ってきたとき、レンタルビデオを見ようという話になり、何を見るかという話になった。俺はロビン・ウィリアムズ主演の何か、ヒューマンドラマ的な映画を見たがったのだが、父が嫌がった。それで揉めた。
後々思えば、その時の父は、湿っぽい映画ではなく、もっとタフに生き抜く、ダイハードやランボーのような映画を見たかったのだ。そりゃそうだ。俺は若くて阿呆だった。その時の父はとても元気がなく、寂しげに見えた。その時の事を時々思い出して、今でも悔やむ。

その後病院に戻ってからは、家にいたときの見る影もなかった。父は石原裕次郎に憧れていて、実際背も大きく、体格から何から似ていて、声量もあり歌も上手く、ススキノで流しをやっていたこともある程だった。その父が、震えが酷くなって喋れなくなり、モノを書いてもミミズの這うような文字になった。自分は出来る限り仕事を休んで、何日も病院に泊まった。いつどうなっても、ちゃんと見送ってやれるように。

臨終の間際、父は死んでなるものかと言わんばかりに、目を見開き、体を震わせていた。やがてピタリと震えが止まり、それと同時に鼻からツーッと血が流れた。心電図が映画みたいに動かなくなった。それから、医者が時計を見ながら医学的に決められた時間の経過を待ち、改めて脈を確認し、ご臨終です、の一言を告げた。俺はベッドを蹴飛ばしていた。

父が死んだ後、初めて祖母から、父の子供時代の写真を一枚、見せて貰った。
父の生まれ故郷である北海道の岩内という町は昔、町中を焼き尽くす大火に見舞われ、父の写真は殆ど焼けてしまったのだ。というか、その一枚を見せられるまで、父の写真はないものと聞いていたから、ビックリした。自分は父が30になるかならないかの時の子供だから、生まれたときから父の死まで、自分より若い父の姿というものを見ずに育って来たのだから、何だか奇妙な感じであった。

今現在既に、自分の二人の姉は父よりも年上になり、あと四年もすれば自分も、父が死んだのと同じ年になる。父より長生きする気が、あまりしない。というか想像つかない。

父は苦しみながらも、家族全員に看取られながら死んだ。死の間際、本人にそれが見えていたのかどうかは知らないが、そのことについては幸せだったと思う。

前からそうだが、ここ最近はさらに、自分が誰に何を残せるのか、出来れば何かを残したい、という気持ちが強まっているように感じる。血の繋がった誰かでないにしても、生きた証として誰かに、何かを残して行けるようでありたいと願う。そういう人生を歩みたいと願う。

23の自分は、まだ結婚もしていなかったし子供もいなかったし、当然離婚もしてないわけで、当時はちょうど、最初の転職をした頃だった。父が死んでからずっと、今なら聞きたい事が山ほどあるのにと思い続けているが、いないので仕方ない。それでも、こんな時、父ならどうしただろうなと考えることが、たまにある。そうやって親というものは、傍にいなくともずっと親として、心の中に残っていくものなのだろう。



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