EYESIGHT/INSIGHT - Photography blog by Keisuke Takahashi

カテゴリ: 展示

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先日、友人のうっちーこと内野知樹さん、そして岡紀彦さん、みのもけいこさんのグループ展「裏話のある写真展」を観に、埼玉の霞ヶ関駅そばのKalaftaさんへお邪魔しました。

お邪魔した日はたまたまご三方勢揃いで、各々と写真について色々お話しできてよかったです。

写真展に足を運ぶのが久しぶりで、皆さんと話しながら思ったのだけど、写真について感じたことは、ちゃんと言葉にした方がよいな、ということで、今回の感想を記事としてまとめてみようと思った次第です。


まず岡さん。

岡さんの写真は、色と構図のバランスがとても素晴らしかった。人の写真を観て「ああ、いいなあ」と感じたのは、物凄く久しぶりでした。ある1枚の写真について、あまりに素晴らしいのにプリントサイズが小さいな、と思って、僕ならこういう構図にしてこれくらいのサイズでプリントする、と意見させて頂きました。と言っても、自分の表現ならこうする、という話で、そうしなかった、というのが岡さんの表現であり、正解はないのだとは思うのですが、この写真に関しては、他の写真にはタイトルが付いているのに、これだけなかったり、岡さんの、この写真に対する迷いのようなものが垣間見えたので、思い切って言わせてもらいました。岡さんはインスタもやられていらっしゃるのですけと、この写真は上がっていないし、そしてこの写真は多分、プリントでないと良さが伝わらないと思います。なので出来れば皆さんに、実物を観て欲しいです。

ちなみに岡さんはイケメンで、イケメンでこの写真、という事実は、実は凄く(自分の中で)評価に影響しているのではないかな、と思ったり。というのは、岡さんがカメラ好きでずっと撮り続けている60歳くらいの人、だとしたら、これほど良いと感じたかな、と少し考えたからです。多分僕だけですね、すみません。とにかく物凄く巧いのでこの先、巧さに負けないといいなあと思いました。


次にみのもさん。

みのもさんはご近所の夕日の見える場所の写真を展示されていらっしゃって、金網越しの風景なのですが、プリントサイズが小さいものから大きいものまであり、純粋に1枚の写真として観た場合に、何故これが大きくて、何故これが小さいのかわからなくて質問させて貰ったのでした。何故かというと、展示されている写真には(みのもさんの作品に限らず全て)値付けがされており、物理的に大きい写真が高い値付けだったからです。すると、写っている金網のサイズがなるべく実物大になるように揃えた、という説明を頂いて、腑に落ちまして、それを聞いてから改めて観るとぐっと見え方が違ってきて、聞いてみてよかったと思いました。

たまたま、展示されている写真群とは別の写真群が置かれていて、そちらは、1枚1枚の写真としては展示されているものより個人的には良い写真だと感じたのですけど、お話を伺うと、たまたま仕事で広島を訪れた際に、少ない時間で撮られた写真なのだという。確かにそのような写真の場合、展示するテーマとしては弱いと感じるかな、というのは個人的にも理解・共感できました。ただ、今回の写真展が「裏話のある写真展」いうことだったので、そういう話も含めて、これを展示しても良かったのではないかな?と思ったのは事実。ただこれもやはり、正解はないのだと思います。


最後にうっちー。と呼ぶとちょっと失礼なので、以下内野さん。

内野さんの写真はいくつかのシリーズがあるのですが、例えば「武蔵野写真」という一連のシリーズについて言えば、写真1枚1枚にさしたる意味はないけれども、連続してそれを撮っていること、そしてそれらをまとめて展示すること、そこに意味が生まれる。対して「ほころぶ」というシリーズについては、もう少し1枚1枚に作品性があって、しかしそれらも、まとめて展示されたときにまた一つ裏の大きなテーマが見えてくる。そういう展示を、なんだかんだ定期的に続けていて、えらいなあと思うことしきりであります。ただひとつ思うのは、この表現の向かう先は何処なのだろう、ということです。

武蔵野写真はいくつかの定点での写真を撮り続けていて、恐らくそこに2019年、2020年の写真が加わっても、観ている方は気づかない。例えば、畑がマンションに変わって、いきなり定点のど真ん中にマンションが現れると、これは大きな変化であるけれども、ルポルタージュ的な意味が強くなる。まあ、そういうタイムレスなモザイク感を狙っているのかな、とも思うのですが、だとするともう殆ど完成しちゃっているシリーズなのかなと。畑をずっと撮り続けていて、リセットされた畑(そういうの何ていうんでしたっけ。語彙がないな)はあるんだけど、収穫の風景はあんまり無いな、とか、長年観てるとそういう内野さんの虚無感を垣間見たりしてるわけですけども。

他の人が真似できないほど長い間、撮り続けているアドバンテージ・強みはあるけれど、さて次は、というのが、長年内野さんの展示を観ていての、一個人としての感想です。これもまた、正解はないんですけども。


そんなこんなで物凄く刺激になったのであります。グループ展というのも悪くない。自分も、観る方が脳を揺さぶられるような、振れ幅の大きいグループ展をやりたいなあ、そう思いました。

Karafta でのこの展示、5/26(日)まで開催されていますので、この週末お時間のある方は是非足を運んでみて頂ければと思います。


Karafta 〒350-1101 埼玉県川越市的場2361−14


Karaftaさんは家具・雑貨のお店なので、オリジナルの可愛い縫いぐるみも売ってます(ターナーさん、って名前らしいです)。可愛くて思わず、自分も買ってしまいました。ファンシーおじさん。

店主が音楽好きで自作のギターを飾っていたり、あとBGMが個人的にツボで、デヴィッドボウイの”Quicksand”の外国語カヴァーとか、ザ・スミスの”The Headmaster Ritual”のカヴァーとかが気になって耳が行ってしまい、いやもう少し集中して展示観ようと思ったらブランキーの「脱落」が流れて観るどころでなくなったのは内緒です。


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ところでポストカードの発送、ちょっとお休みさせて貰っていてごめんなさい。写真止めたわけではないので、少しお待ちを・・・。


昨年、初めての個展をやってから、自分の作品を世の中にどうプレゼンしていくか、と云うことについて、とにかくよく考えるようになった。

それで、2回目の個展に向けて色々考える中で、今まで全然考えもしてなかったやり方を思いついてしまって、今はそのための下調べをしている。
ちょっとこれは「個展」というやり方にはそぐわないかもなあ、と思いつつ、でも間違いなく「やりたいこと」ではあるので、去年宣言してた「次の個展」に関して、根本的に考え直さないといけないかな、などと考えつつ。


具体的な話は、色々段取りが出来てから明らかにしたいので、今はそういうフワーッとした話しか出来なくて、だとしてそれをブログに書く意味があるのか、って事なんだけども、その、何かを思いついてしまった、思いついちゃった時のワクワク感は、自分の中ではすごく大事で、前の展示の時も、実際の作業を始める前の盛り上がり方というのは物凄くて。そんな気持ちを書き留めておこうかなと。


とはいえ前回の反省として、何かを思いついてから具体的に進めるまでに時間をかけ過ぎてしまった、という点があるので、今回は迅速に物事を進めないといけないなあ、と思う。

とりとめもないですけど、色々アイディアを思いついているうちはまだ行けるかな、と思えるし、そうやってやりたいことを思いつくうちが花かな、とか思いました。では。




この頃はずっと、次の個展のことを考えている。

個展のタイトルは『心の質量』と決めている。で、とにかく、大判のプリントにしたいので、ポスターを作っているような業者に、用紙のサンプルを請求したり、値段を調べたり。

ひとつ思うのは、これはもう、ずっとはじめの頃から考えている事ではあるけれど、誰かの個展であったり、書店に並ぶ写真集の装丁であったり、なんかこう、これいいな、ってのが、全くない。
ということは、自分のやりたいことというのは既存のことには存在しなくて、何か違うことをやってみたいのではないか。だとしてそれは何なんだろう、とか。

僕は今年48だから、原体験としてのフィルムカメラ・フィルム写真と言うものは存在していて、ただ、今こうやって写真家みたいなことを名乗りだしてから、その中心にあったのは、iPhoneをはじめとするデジタルカメラであって、写真もディスプレイで見ることの方が圧倒的に多い。
だとしたら、紙にプリントして展示することっていうのは絶対ではないんじゃなかろうか。大型のディスプレイ何台か借りてきてバーンと展示するのもアリじゃないか、とか、プリントするのも紙じゃなくてもいいんじゃないか、等々。
とはいえ、撮っているもの自体はそれほど突飛なものではないから、その落としどころがなかなか難しいのだけど。

なんにせよ冒頭に書いたとおりテーマは決まっていて、コンセプトもはっきりしているので、それをよりよく、わかりやすく表現出来たら何でもいい。それに尽きるのですけども。

それではまた。




今年の2月に初めての個展をやってから早8か月。なんか今年とは思えないくらい、大昔の出来事のような気分である。
それで、個人的には、写真家はやはり個展をやってなんぼ、個展をやらない写真家はライブをやらないミュージシャンみたいだ、なんてな思想があるので、来年の頭には2回目の個展をやりたいと考えている。


以前、次のテーマに取り組み始めた事を書いたけれど、そのテーマはちょっと頓挫、というか、まだ時期ではない気がして、やめちゃないけど今は先送り。
とは言え、次の展示のテーマは決まっている。出す写真も大体、決まっている。


だからあとは、プリントだったり、場所だったりを決めるだけなのだけれど、とにかく如何せん金がないねー。サラリーマン写真家。
否、サラリーマン写真家でも普通に金はあると思うんだけどもね、至極全うに生きてれば。私の場合、色々あって困っているだけである。これは仕方ない。受け入れるしかない。


調べてみるとクラウドファンディングとかあるみたいだけどね、どうなんだろね。人望ないからな、自信ない。やってみなけりゃわからない、か。


写真は先週、北海道に帰ったときに登ってきた樽前山。山、楽しいけどね、一番やりたいのは個展なんだから、そこを頑張らねば。

応援してもいいよ!なんて奇特な方がいらっしゃったら、下のリンク、僕のポートフォリオのサイトから写真なんか買って頂けるととても嬉しいでございますよ。宜しくお願い致します。

それではまた。





岡崎から東京に遊びに来た友達が、東京オペラシティ アートギャラリーに、ライアン・マッギンレーの写真展を見に行くのだ、と言うので、ついて行った。 

最初「ライアン・マッギンレーの写真展」というのが「雷山銀嶺の写真展」と聞こえ、仏像か山でも撮りまくっている写真家かと思った程度に、ライアン・マッギンレーのことを知らなかった。 
が、あとで思いだしたのだが、自分はこの記事をだいぶ前に読んでいたのだった。 

ライアン・マッギンレーより、若き写真家たちへ贈る言葉。 

展示の最初の部屋には、裸の若者のポートレートが並ぶ。 
いま「アメリカで最も重要な写真家」と評価される写真がこれなのか、と正直釈然としない思いのまま、次の部屋へ。 
次の部屋には、大自然の中、河に浮かぶ流木や、氷河の上に、全裸のモデルを配した写真群が。このシリーズは説明不要で直感的に、いいなと感じた。 

そんな展示の中に一枚、"Morrissey"というタイトルの写真があった。 
"Morrissey"、というのは、80年代、その人気の絶頂期に解散したマンチェスター出身のバンド「ザ・スミス」の元ボーカリストであり、現在もソロで、第一線で音楽活動を続けている「モリッシー」のことだ。 
ザ・スミスはモリッシーという類い希なる詩人と、ジョニー・マーという、80年代、エレポップ全盛、ギターロックと言えばLAメタルなんかが活発だった中、リッケンの12弦なんかを抱えて異彩を放つギターヒーローがフロントマンだった。
活動歴は五年ほどだったが、影響を受けたミュージシャンも多く、今なお伝説のバンド的に評価され続けている。
僕は高校生の頃、リアルタイムでその解散に至るまで、ザ・スミスの(わりかし熱狂的な部類の)ファンだった。 ザ・スミスがリリースしたレコードのジャケットは全て、テレンス・スタンプや若き日のジェームズ・ディーンなどのポートレート写真が使われており、それは全てモリッシーのチョイスによるものだった。

帰りに購入した写真展の目録を読むと、ライアンはモリッシーのツアーに同行し、その時の一連の写真を"Morrissey"というテーマで発表しているようだ。 
そういった事を知ると、一連のポートレートのシリーズの意図するところが、自分なりに理解できた気がして、そしてまたなんとなく、親近感も覚えた。 

冒頭のリンク先に、ライアンのこんな言葉がある。 
「何か没頭できるものを見つけて、それにこだわること。誰かと張り合ったりせず、自分らしさを見つけること。自分の人生で経験したことを撮って、写真史の知識と結びつけること。そしてそれら全てを混ぜ合わせて、あなた以外の人も入れるような、芸術的な世界をつくり出すことです」 


写真展の客層は実に様々だった。ミッドタウンという場所もそうだが、「アメリカで最も重要な写真家」というお墨付きをもらうというのは、こういうことなのか、と感じた。 
ライアン言うところの「あなた以外の人も入れるような、芸術的な世界をつくり出すこと」という言葉の、まさに実践例を見せつけられた。 

そこに一歩でも近づく事ができるのかわからないけど、この言葉は忘れず心に留めておこうと思った。 


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