近所に古い銭湯がある。
元は工務店をやっていたのが、銭湯をどこかから引き継いだ、と、よくわからんがそういう歴史らしい。
建物は古く、周りにはつかわれなくなったものが雑多に積み重ねられている。
使用済みのプロパン、80年代のコーラの瓶、壊れかけた道具入れ、魚がいたりいなかったりする水槽、ゴミにしか見えない廃材、ゴミにしか見えないゴミ。
と言えばなんとなく響きは詩的だけど、ぶっちゃけゴミ集積場だ。


毎朝その前を歩いて、つい感じるのは、自分の頭の中ってこのゴミ集積場みたいだね、と。
46年も生きていると、雑多な思い出が頭の中に乱雑に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれて、心が揺れる度、その思い出がポロリポロリと目の前に落ちてくる。

スタジオでバンドの真似事をした帰り大通公園でフランクフルト買って、マスタードがうまいんだよ、つって馬鹿みたいな量かけたら、馬鹿みたいに辛くて、咽せて喋れんくなったな、だの。

昔の彼女は写真部だったな、エジプトの写真貰ったっけ、あれまだどっかにあるのかな、だの。


どうしてそんなことを忘れないのかよくわからない。心のどっかにシャッターがついてて、それを切ってしまったのかな。



銭湯の裏には公団住宅があって、そこもまた廃墟になっていて、立ち入り禁止で放置されてる。早いとこ取り壊して一掃してしまえばいいのに、とか思う。
でも例えその場所が更地になって、新しい建物が建っても、誰かの心にはずっとその風景が残るんだろう。

思い出にいいも悪いもないけど、ある種の思い出はそんな風に頭の中にこびりついて、時折重い。自分の写真は、できたら、いつなのか・どこなのか、そんなことを考えさせない写真がいい。写真で残したい思い出なんてない。全部頭が覚えちゃってるから。


全ての写真は記録であるから、それはとても難しい事なのかも知れないけど、振り返るためでない、過去にとらわれない、できたらそんな写真を撮れるようになりたい。