EYESIGHT/INSIGHT - Photography blog by Keisuke Takahashi

FullSizeRender

今、この状況下で、こういう記事を書くのは後出しジャンケンみたいでどうかとは思う。が、ここで思ったことを書かないと、この先書く機会は多分ないし、何せ写真をやっている人でこれについて書いている人が少ない。立場的に書けない人もあろう。だから書く。
アラーキー、こと、荒木経惟氏の事である。

僕は、荒木経惟氏の写真に何らの感慨も抱いたことがない。つまりその良さがわからない、という意味だ。しかしそれは、氏の写真家としての資質を疑う、という意味ではない。
何せ氏は、長年に渡って、恐らく日本で一番の知名度を持つ「写真家」である。だからそこには、僕が知らない写真の価値があるのだろうと思い、氏の著作も何作か読んだ。写真家の心構えたるものや、創作の秘密、に触れたかったという事もあった。しかし、わからなかった。

だが知っての通り、写真集のコーナーでもよいし、アート系の雑誌でもよいが、荒木経惟氏の名前はかなりの頻度でクローズアップされている。それはすなわち「人気がある」「需要がある」「売れている」ということに他ならない。

例えば、同じくらい長年に渡り、第一線の写真家として活動されている森山大道という人も、荒木経惟氏の次くらいに露出が多い写真家だ。しかし雑誌が森山氏の特集を組んだとして、やはり表紙になるのは氏の「写真作品」であり、氏のポートレートではない(勿論ゼロではないが)。
対して荒木氏の場合は、彼自身のポートレートである場合も、多い。

それで僕が出した結論は、荒木経惟氏のアートというのは写真に限定したものでない、氏自身のキャラクターや語り口、生き様が混然一体となった、キャラクタービジネスなのだと。つまりエンターテイナーである、と。

そのような個人的な認識を前提として、彼のモデルを長年勤めたKaoRiさんのこの記事を読んだ。

その知識、本当に正しいですか?


二度ほど読んでまず思ったのは、えらく醜悪な話である、と。まずそう感じたのは間違いなかった。

しかしその上で、同じくらい僕が感じたのは、日本一の知名度を持つ写真家の、レギュラーの被写体になること、彼女がその道を選んだときに、その先に待つであろう未来、つまりモデルとして知名度が上がり、自分自身の評価が上がる、そういうことを夢見なかった訳ではないだろう。それに伴う代償というものも、少からずあろうということで、それは彼女の想像を遥かに超えていたかも知れないが、何故、そういう想像力が働かなかったのか。何故、今になってこの話を暴露するのか。率直に言うとそのように思ってしまった。

そう思ってしまった理由は上述の通り、僕が荒木経惟氏を「エンターテイナー」「ショービズの人」と定義していたからである。
つまりショービズの世界であれば、こんな話は世界中に、それこそ今アメリカで、たくさんの大物がセクハラを訴えられている通りで「当たり前の話」と思っていた、からである。
そういう感覚を持っているのは、僕だけではないだろう。

しかしそれこそが僕の一番の大きな間違いで、今の世界の趨勢というのは、どんな世界であれ、モラハラ・パワハラのようなことは、あってはならないということだ。僕はそれを、前述の記事をFacebookでシェアしたときに、アメリカ人の女性にコメントを頂いて、理解した。

我々は、というと怒られるかな、少なくとも僕は、そのように「それはそういうものだから」と決めつけで物事を見ているふしがある。
けれどもその「決めつけ」こそが、権威を持つ人間を増長させていないか、と思う。

小さな容認が、大きな増長を生む。

それに異を唱える事を止めてしまえば、もう何も変わらない。


そういう気づきを与えてくれたKaoRiさんの記事に本当に感謝するし、また願わくば今回のことが、単なる「アラーキーバッシング祭り」みたいなことで終わらなければよいと思う。

何故ならば、それは、全ての写真家に翻ってくる事案を孕んでいるから。


FullSizeRender

ネット上のとある場所で、時間のあるときに本を朗読して、公開している。
何でそんなことをはじめたのか。

ここ暫く、何かをやろう、というモチベーションがまるっきり沸かなくなってしまった。写真にしろなんにしろ、仕事以外のことは「好きでやっていること」には違いないのだけど、何か目標を立てて、それを達成することをニンジンにしてぶら下げなければ、僕なんかはなかなか本気でやる気になれない。だが、人生50年近く生きてきてだいたいのことの先行きを読んでしまう癖がついてきて、ちょっと行き詰まったというか、息詰まったというか。

しかし、何もする気になれない反面、何かはしたいという、矛盾した気持ちがあり(それはだいたい皆、そんなものだと思うけど)、自分のための何かをする気になれないのであれば、人の役に立つボランティアでもやってみようか、お爺さんにパソコン教えたり、お婆さんにカメラ教えたり。などと考えて、地元のボランティアを調べているうちに、読み聞かせや音訳、というものがあることを知った。本を読むのは好きだし、ちょっと興味が湧いた。

しかし考えてみれば、声に出して音読するということは、学生の頃から何十年もやっていない。そもそも僕の声は籠もった声質で、まず自分の声が嫌いだ。そして普段だって、仕事以外ではあまり喋らないから、そもそもちゃんと声が出るのかどうかもわからない。
それでも、やってみたいと思ってしまったものは仕方ないので、練習がてら、読んだものの公開を始めてみたのだ。運動をまるっきりしていなかった中年男が唐突にランニングを始める、そういうのに近いと思う。
練習なら公開せずにひとり部屋でやればいいではないか、という話だが、人様に聴かれるかも知れぬ、となるとそれなりに真剣にやらなくてはいけないし、聴いて頂いて反応を見たい、というのは、写真始めた時と全く同じだ。聴いてくれて(見てくれて)いる人は殆どいないが、ゼロでもないので、丁度よい。

果たして程なく、喋りを専門にやっている知人からアドバイス、それとほんの少しのお小言を頂いた。お小言なんて言うと怒られてしまうが、「真面目にやっているのなら」という但し書きつきでアドバイスをもらったということは、真面目には見えなかったのかも知れない、ということだ。と思う。

真面目は真面目である。ただ、真面目の尺度が、本業かどうかでは異なるように思う。
それは決して「趣味だからライト」という意味あいではない。本業の場合、明確に型というものがあり、こうでなくてはいけない、という正道があると思うのだ。ここでいう本業、というのは、それで生計を立てるかどうか、という意味あいで僕は言っている。
本業を目指すのであれば、絶対にその尺度をまず知った上で、それに従う方がよい。そうでなければ、早々に食いっぱぐれるだろう。ただ僕は読みに関して、本業は目指していない。それであれば、正道でない方が面白くなる可能性がある、と僕は思っている。
とはいえ、僕の朗読たるや全く酷いもので、アドバイスの9割方は全くその通りだったので、毎日気をつけながら練習している。

という風に、これまでやったことのないことに手を出してみると、色々と気づきがあるから面白い。
例えば僕の写真活動も、今のところそれで生計を立てている類のものではないから、そんな立場の者が写真についてあれこれ云っても、本業の方からみれば笑止千万な戯れ言に聞こえる事もあるに違いない。それで食べていく、ということであれば需要がある方に寄せる必要があり、それはとても技術のいることだし、それこそが職人芸だ。

ただ、表現行為というのはそういう方向に向かう事が全てではない。むしろ自分のやりたいことはもしかして時代の趨勢と異なる、つまり金にはならない、と自覚してしまった場合、どうするか。
僕自身は写真で食べていく、なんてことは、気まぐれな運でも降ってこない限り、あり得ないと思っているんだけども、それは諦めというよりは、そういう道を選んだ、と言うことなのだ。それであれば、正道でなくても構わない。回り道でもよい。色んな可能性にチャレンジする方がよい。但しゴールは見失わないことだ。

朗読に関しては声がよいわけでも読みが巧いわけでもなく、センスの欠片もなさそうなので、何がどう転んでもこれに可能性があるわけもなく、でもボランティアはやってみたいのと、読んでいて気持ちがよい、というのがあるので、まあ暫く続けてみようと思う。
対して写真は、まるっきりセンスがないというわけでもなく、それが却っていけないなあと思ってしまうことしきりであります。センスがなきゃ諦めもつくんだけど、まだ何かやれるはずだ、なんて、考えてしまうので。


IMG_7846


広大なインターネットの、こんな片隅で僕が言うまでもないことなのだが、ここ20年くらいで世界は変わってしまった。誰かが、グローバリぜーションというパンドラの箱を開けてしまってから。

日本人の仕事は中国に流れた。初めは、末端の製造工程だけだったが、今や根こそぎ全部持っていかれた。例えばケータイ、今HUAWEIを超える日本企業はゼロだ。ガラケーの時代にこぞって競いあっていた企業で、まだケータイを作っているのはSONYだけだ。

グローバリゼーションによって会計制度も変わり、アメリカ流を押しつけられ、コストカットを迫られ、我々の収入は減った。
遠い国の金持ち達のマネーゲームで、やれ全面株安だやれリーマンショックだと、景気はおもちゃにされた。
挙げ句、上場企業ですら終身雇用制を捨てた。一流の大学に行けば将来が保証される、なんて事は今はもう、ない。
サラ金はアプリで金を貸す時代だ。サラ金も銀行と組んで銀行系なんやらと言い方を変えているが、サラ金はサラ金でしかない。電車の車内ディスプレイでCMを見た。皆、気が狂ったように踊っている。実際気が狂っているのだろう。


怖いのは、そうやって何もかも変わってしまったことを、みんな知っていながら知らないふりをして、今まで通りの生活を続けようとしていることだ。


そういった人たちに出来ることはせいぜい、経済というコマが止まってしまわないように、コマを回し続ける事だけみたいだ。お金の使い方を指南するテレビやブログを参考に、半年後にはなくなっているかもしれない飯屋で話題のランチ、1年で着られなくなるファストファッション、2年で機種変を強いられるケータイ、3年保証が切れたとたんに故障する家電、そんな消費を意味もなく続けている。


僕だって偉そうにこんなことを書いてはいるが、何も変わらない。阿呆な日本人の一人だ。だが僕はこんなことはもう、出来ればやめにしたい。そう願っている。


そのために何が出来るだろう?考えなくてはいけない。僕の表現手段は写真だから、写真で何か、と考えてはみるが、周りの人間の心ひとつ捉えられない人間に、写真という表現で誰かの心に影響を及ぼすことなど出来るのか。

そもそも写真なんかやってる場合か。

そんなことをずっと自問自答している。



このページのトップヘ