EYESIGHT/INSIGHT - Photography blog by Keisuke Takahashi

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ネット上のとある場所で、時間のあるときに本を朗読して、公開している。
何でそんなことをはじめたのか。

ここ暫く、何かをやろう、というモチベーションがまるっきり沸かなくなってしまった。写真にしろなんにしろ、仕事以外のことは「好きでやっていること」には違いないのだけど、何か目標を立てて、それを達成することをニンジンにしてぶら下げなければ、僕なんかはなかなか本気でやる気になれない。だが、人生50年近く生きてきてだいたいのことの先行きを読んでしまう癖がついてきて、ちょっと行き詰まったというか、息詰まったというか。

しかし、何もする気になれない反面、何かはしたいという、矛盾した気持ちがあり(それはだいたい皆、そんなものだと思うけど)、自分のための何かをする気になれないのであれば、人の役に立つボランティアでもやってみようか、お爺さんにパソコン教えたり、お婆さんにカメラ教えたり。などと考えて、地元のボランティアを調べているうちに、読み聞かせや音訳、というものがあることを知った。本を読むのは好きだし、ちょっと興味が湧いた。

しかし考えてみれば、声に出して音読するということは、学生の頃から何十年もやっていない。そもそも僕の声は籠もった声質で、まず自分の声が嫌いだ。そして普段だって、仕事以外ではあまり喋らないから、そもそもちゃんと声が出るのかどうかもわからない。
それでも、やってみたいと思ってしまったものは仕方ないので、練習がてら、読んだものの公開を始めてみたのだ。運動をまるっきりしていなかった中年男が唐突にランニングを始める、そういうのに近いと思う。
練習なら公開せずにひとり部屋でやればいいではないか、という話だが、人様に聴かれるかも知れぬ、となるとそれなりに真剣にやらなくてはいけないし、聴いて頂いて反応を見たい、というのは、写真始めた時と全く同じだ。聴いてくれて(見てくれて)いる人は殆どいないが、ゼロでもないので、丁度よい。

果たして程なく、喋りを専門にやっている知人からアドバイス、それとほんの少しのお小言を頂いた。お小言なんて言うと怒られてしまうが、「真面目にやっているのなら」という但し書きつきでアドバイスをもらったということは、真面目には見えなかったのかも知れない、ということだ。と思う。

真面目は真面目である。ただ、真面目の尺度が、本業かどうかでは異なるように思う。
それは決して「趣味だからライト」という意味あいではない。本業の場合、明確に型というものがあり、こうでなくてはいけない、という正道があると思うのだ。ここでいう本業、というのは、それで生計を立てるかどうか、という意味あいで僕は言っている。
本業を目指すのであれば、絶対にその尺度をまず知った上で、それに従う方がよい。そうでなければ、早々に食いっぱぐれるだろう。ただ僕は読みに関して、本業は目指していない。それであれば、正道でない方が面白くなる可能性がある、と僕は思っている。
とはいえ、僕の朗読たるや全く酷いもので、アドバイスの9割方は全くその通りだったので、毎日気をつけながら練習している。

という風に、これまでやったことのないことに手を出してみると、色々と気づきがあるから面白い。
例えば僕の写真活動も、今のところそれで生計を立てている類のものではないから、そんな立場の者が写真についてあれこれ云っても、本業の方からみれば笑止千万な戯れ言に聞こえる事もあるに違いない。それで食べていく、ということであれば需要がある方に寄せる必要があり、それはとても技術のいることだし、それこそが職人芸だ。

ただ、表現行為というのはそういう方向に向かう事が全てではない。むしろ自分のやりたいことはもしかして時代の趨勢と異なる、つまり金にはならない、と自覚してしまった場合、どうするか。
僕自身は写真で食べていく、なんてことは、気まぐれな運でも降ってこない限り、あり得ないと思っているんだけども、それは諦めというよりは、そういう道を選んだ、と言うことなのだ。それであれば、正道でなくても構わない。回り道でもよい。色んな可能性にチャレンジする方がよい。但しゴールは見失わないことだ。

朗読に関しては声がよいわけでも読みが巧いわけでもなく、センスの欠片もなさそうなので、何がどう転んでもこれに可能性があるわけもなく、でもボランティアはやってみたいのと、読んでいて気持ちがよい、というのがあるので、まあ暫く続けてみようと思う。
対して写真は、まるっきりセンスがないというわけでもなく、それが却っていけないなあと思ってしまうことしきりであります。センスがなきゃ諦めもつくんだけど、まだ何かやれるはずだ、なんて、考えてしまうので。


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広大なインターネットの、こんな片隅で僕が言うまでもないことなのだが、ここ20年くらいで世界は変わってしまった。誰かが、グローバリぜーションというパンドラの箱を開けてしまってから。

日本人の仕事は中国に流れた。初めは、末端の製造工程だけだったが、今や根こそぎ全部持っていかれた。例えばケータイ、今HUAWEIを超える日本企業はゼロだ。ガラケーの時代にこぞって競いあっていた企業で、まだケータイを作っているのはSONYだけだ。

グローバリゼーションによって会計制度も変わり、アメリカ流を押しつけられ、コストカットを迫られ、我々の収入は減った。
遠い国の金持ち達のマネーゲームで、やれ全面株安だやれリーマンショックだと、景気はおもちゃにされた。
挙げ句、上場企業ですら終身雇用制を捨てた。一流の大学に行けば将来が保証される、なんて事は今はもう、ない。
サラ金はアプリで金を貸す時代だ。サラ金も銀行と組んで銀行系なんやらと言い方を変えているが、サラ金はサラ金でしかない。電車の車内ディスプレイでCMを見た。皆、気が狂ったように踊っている。実際気が狂っているのだろう。


怖いのは、そうやって何もかも変わってしまったことを、みんな知っていながら知らないふりをして、今まで通りの生活を続けようとしていることだ。


そういった人たちに出来ることはせいぜい、経済というコマが止まってしまわないように、コマを回し続ける事だけみたいだ。お金の使い方を指南するテレビやブログを参考に、半年後にはなくなっているかもしれない飯屋で話題のランチ、1年で着られなくなるファストファッション、2年で機種変を強いられるケータイ、3年保証が切れたとたんに故障する家電、そんな消費を意味もなく続けている。


僕だって偉そうにこんなことを書いてはいるが、何も変わらない。阿呆な日本人の一人だ。だが僕はこんなことはもう、出来ればやめにしたい。そう願っている。


そのために何が出来るだろう?考えなくてはいけない。僕の表現手段は写真だから、写真で何か、と考えてはみるが、周りの人間の心ひとつ捉えられない人間に、写真という表現で誰かの心に影響を及ぼすことなど出来るのか。

そもそも写真なんかやってる場合か。

そんなことをずっと自問自答している。



Tokyo Gate Bridge by Keisuke Takahashi on 500px.com


昨日から、500pxに3年前の2014年の10月にアップしたゲートブリッジの写真に、たくさんのlike(所謂「いいね」)がついている。
恐らくどこかでFeatureされてるのだと思うが、有料会員でないのでわからない。

以前所有していた、富士フイルムのX-T1で撮った写真で、ふと、その写真のEXIF情報を見たら、XF18-135mmというズームレンズで撮られており、今思えば後にも先にも唯一所有していたズームレンズなのだが、持っていたことすら忘れている(笑)。

自分で言うのもなんだが、大胆な構図だと思う。こういう構図はズームだったから撮れたのかな、と確認してみたところ、EXIFには焦点距離32.6mmと記録されているから、APS-C換算で48.9mm、だいたい50mmで撮ってる、ということは単焦点でも結局変わらなかったということだ。

こういったランドマーク的な建造物は、大体取れるポジションも限られてくるので、全体を綺麗に収めようとしても、大変つまらない写真にしかならない。そこで僕は橋の下に入って、ライトアップされた橋と水面に映るライトを縦構図の中央に収めて、両端に大きく影を入れている。そして、橋のラインに沿って並べられた点光源を、画面上部中央を通して天まで走らせる。我ながら大胆な構図だと思うし、狙いはうまく行っていると思う。

写真SNSというものは、写真をアップすればするほど、それまでにアップした写真がタイムラインの向こうに追いやられて、誰にも見て貰えなくなってしまうジレンマがあって、そういうものだ、と割り切れるInstagram以外は最近それほど積極的にやっていないのだけども、3年前の写真がこうやって掘り起こされて、再び見て貰えるというのは、単純に驚きだし、素直に嬉しい。
そして自分自身も、かつてやっていたこと/出来ていたこと、今はやってないこと/やれていないことに気づかされて、大いに刺激になるなと、そんなことを感じた今日でした。


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