EYESIGHT/INSIGHT - Photography blog by Keisuke Takahashi

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先日社用で札幌に行く機会があって、ついでに数日実家で過ごしたのであるが、1993年12月31日から94年の12月30日までのきっかり1年つけていた、自分が26になる年の日記を見つけた。

日記というよりは作文帳みたいなもので、詩やら散文やら短編小説程度の物語やら、色々書いてあって、まあプロを目指してたわけでも何でもないので稚拙ではあるが、当時は転職したり色々嫌になって旅に出たり、そんな時代だったので、割と面白かった。
何より25歳って、10代の頃の自分を思って随分歳を取ってしまった、と考えているのだけど、更に25年経った今見るとホントに・・・色々感慨深い。

そういう文章をシェアするのに何かいいサービスあるかな、と思っていくつか見てみたのだけど、どうもそぐう場所がないので、自分のブログに書こうかな、と。

以下は、1994/4/15、カート・コバーン自殺のニュースの3日後の日記から。


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ところで

犬の散歩は誰の仕事だ?

ボスは大儀そうにしゃべる

そういう時の彼の目ときたら

天下をとったみたいに

自分では説得力があると

思ってるが全然の

そういう目をしてるんだ

俺はといえば

気持ここにあらず

窓の下くもり空の下の街の交差点に

オドロキはないかと

毎日オドロキはないんだが

ヒザをゆらして見てる

うまく説明するには

事情はフクザツだが

ここに長く居すぎたと思い始めて長い


目は喋り口はふさがれている

そういうものだという事にしたいらしいが

それについては誰も何も

感じず

時計を見れば世界の終わりまで

あと3分くらい?

誰も走り出しゃしないぜ?

道路の向こうには

空き地があって

そこでは昼間から集まって

酒をのんでいる人達がいるが

無理してるようにも見える

自分がいかに自由なのか

演じてるように見える

そういう意味では

誰も自由でないというのは

ヘンな話だが

ヘンな話は話題にもならない

革命家のタマゴは何の革命を起していいのかわからないでいる 

音楽家は何について歌っていいかわからずインタビューをたくさん受けてイヤになって自殺した

信じるとウラぎられるなんてまやかしだ

雨が降ってきて駅までは沢山歩く

この世界はセルフ・サービスだ

と思っていたら

案外そうでもないぜ

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冒頭の写真は先日の札幌。西4丁目あたりかな。前に行った時にもこの建物を撮っていた。ここ、好きだな。

ちなみに「大儀そう」は北海道弁かな。「億劫そう」って事です。




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戦争というものは悲惨だし、無いに超したことはない。軍隊も無いに超したことはないし、よって軍人というものも、いなくて正解だ。
だが現実には、世界のあちこちで戦争・紛争が止むことはないし、軍隊もある。兵役のある国も沢山ある。

北朝鮮が、核を増強するとか、ミサイルを撃つとか、そういった揺さぶりをかけている様を「アホだな-」と思っている日本人も少なくないと思う。
しかしわれわれ日本人自身が、たったの70数年前には「猫を噛む窮鼠」だったのであって、アメリカに勝てるわけもない戦を仕掛けたのである。たったの70数年前。ということは、自分が生まれるたったの20数年前の話である。

そう考えると、人の考えなんて場当たり的で、冒頭書いたようなことを思う人たちも10年後、20年後なんかは何を言っていることか、知れたものでない。いや正直、1週間後すらわからない。
人間というのは寂しい生き物で、常に自分が求められる居場所を探して生きている。だからこそ、会社に勤めるサラリーマンは、自分が必要とされていると感じて必死に働くのだし、新婚のお父さんは家族のために必死に尽くすのであって、そこで裏切りや自分の必要性を疑う事態になれば、途端に居場所をなくし、自殺したりもしてしまう。
だとしてこの先、軍隊が「国のため、未来のためにあなたが必要だ」と言えば、喜んで尽くす人だって、今想像するよりも、遥かに多いはずだ。

僕は、世界がそのような事になって行く、その末に世界が終わる、そんなことは嫌だ、しかし、明日戦争が始まる、とかでもない限りは、世界よりも先に、自分が終わる確率の方が高いから、どうでもいいか、と思わなくもない。
だが自分には(何年も会っていないが)娘がいるし、娘や、将来彼女たちに授かるかも知れない子供達、言わば自分の子孫が、そんな酷い世界に生きるのは嫌だなあ、と、考えずにもいられない。

とはいえ、そんな先のことに考えを巡らすまでもなく、今の世界情勢を見ていると、このまま無事に老後を過ごすことすら叶いそうにない。
アメリカも、中国も、ロシアも、戦争をしたがっている。それで北朝鮮を焚きつけている。遅かれ早かれ、いつか何かが起こるだろう。
経済は行き詰まりかけている。ここは戦争でも始めた方が、世界経済にとってはプラスなのだ。富裕層は安全な席を確保している。そして戦争を始めるきっかけを待っている。

人間って、物凄い知性を持っているはずなのに、何のための知性なのかと思う。知性があって探究心があり、科学を駆使して様々な謎を解明していながら、その知識は世界平和に使われることはなく、全く違うことに使われる。
そりゃそうだ。何をやるにも金がかかる。金のある人が、金を増やすために、テクノロジーは使われるのだ。

ところで、高度なAIを作ると、人間を滅亡させる恐れがあるから危険だ、という人がいる。だが上述の通り、AIじゃなくても、そういうことは既に人間自身が行っているのだ。危険だ、という人の「危険」は、消される対象に自分が入るかそうでないか、の違いだけで、そういう人は「3匹のこぶた」で言えば、レンガの家に住んでいるようなものだ。わらの家や木の家に住んでる我々は、いつだって運命に翻弄されるだけだ。

だとしたら、早いとこ全知全能のAIを作った方がいいんじゃないか。AIは、どんな人間を残すのか。金があるとか権力があるとか、そうでない基準があるとしたら何なのか。少しばかり興味がある。

AIと言えばもう一つ。数日前にフォトショップなど、写真・イラスト・動画編集ソフトウェアで有名なアドビ社の、最新AI技術のデモンストレーションが話題になっていた。あまり詳しく読んでいないが、AIが広告要件に合わせて、コンテンツの良し悪しを判断するのだという。
数年前から、ソニーのデジカメには、撮った写真を自動でトリミングして、最適な構図を切り出す機能がついている。これも簡易だが、AI的なものである。
よく「写真は構図が全て」とか「技術で撮れたのではない。偶然そこに居合わせて、たまたまシャッターを切る機会を逃さなかっただけだ」という人がいる。それらの意見と、AIの進化を勘案すると、恐らく近い将来は、街角の街頭カメラこそが最高のストリートフォトグラファーになると思う。
AIは、人類よりまず先に、大衆アートを滅ぼしそうだ。

人はいつか死ぬ。死ねば焼かれて灰になる。何も残らない。それでも何を考えて、どう生きたか、ということは大切だと思う。書いた言葉、撮った写真、作ったもの、そういうものはもしかしたら、自分自身より長く残る、可能性があるから。



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今、この状況下で、こういう記事を書くのは後出しジャンケンみたいでどうかとは思う。が、ここで思ったことを書かないと、この先書く機会は多分ないし、何せ写真をやっている人でこれについて書いている人が少ない。立場的に書けない人もあろう。だから書く。
アラーキー、こと、荒木経惟氏の事である。

僕は、荒木経惟氏の写真に何らの感慨も抱いたことがない。つまりその良さがわからない、という意味だ。しかしそれは、氏の写真家としての資質を疑う、という意味ではない。
何せ氏は、長年に渡って、恐らく日本で一番の知名度を持つ「写真家」である。だからそこには、僕が知らない写真の価値があるのだろうと思い、氏の著作も何作か読んだ。写真家の心構えたるものや、創作の秘密、に触れたかったという事もあった。しかし、わからなかった。

だが知っての通り、写真集のコーナーでもよいし、アート系の雑誌でもよいが、荒木経惟氏の名前はかなりの頻度でクローズアップされている。それはすなわち「人気がある」「需要がある」「売れている」ということに他ならない。

例えば、同じくらい長年に渡り、第一線の写真家として活動されている森山大道という人も、荒木経惟氏の次くらいに露出が多い写真家だ。しかし雑誌が森山氏の特集を組んだとして、やはり表紙になるのは氏の「写真作品」であり、氏のポートレートではない(勿論ゼロではないが)。
対して荒木氏の場合は、彼自身のポートレートである場合も、多い。

それで僕が出した結論は、荒木経惟氏のアートというのは写真に限定したものでない、氏自身のキャラクターや語り口、生き様が混然一体となった、キャラクタービジネスなのだと。つまりエンターテイナーである、と。

そのような個人的な認識を前提として、彼のモデルを長年勤めたKaoRiさんのこの記事を読んだ。

その知識、本当に正しいですか?


二度ほど読んでまず思ったのは、えらく醜悪な話である、と。まずそう感じたのは間違いなかった。

しかしその上で、同じくらい僕が感じたのは、日本一の知名度を持つ写真家の、レギュラーの被写体になること、彼女がその道を選んだときに、その先に待つであろう未来、つまりモデルとして知名度が上がり、自分自身の評価が上がる、そういうことを夢見なかった訳ではないだろう。それに伴う代償というものも、少からずあろうということで、それは彼女の想像を遥かに超えていたかも知れないが、何故、そういう想像力が働かなかったのか。何故、今になってこの話を暴露するのか。率直に言うとそのように思ってしまった。

そう思ってしまった理由は上述の通り、僕が荒木経惟氏を「エンターテイナー」「ショービズの人」と定義していたからである。
つまりショービズの世界であれば、こんな話は世界中に、それこそ今アメリカで、たくさんの大物がセクハラを訴えられている通りで「当たり前の話」と思っていた、からである。
そういう感覚を持っているのは、僕だけではないだろう。

しかしそれこそが僕の一番の大きな間違いで、今の世界の趨勢というのは、どんな世界であれ、モラハラ・パワハラのようなことは、あってはならないということだ。僕はそれを、前述の記事をFacebookでシェアしたときに、アメリカ人の女性にコメントを頂いて、理解した。

我々は、というと怒られるかな、少なくとも僕は、そのように「それはそういうものだから」と決めつけで物事を見ているふしがある。
けれどもその「決めつけ」こそが、権威を持つ人間を増長させていないか、と思う。

小さな容認が、大きな増長を生む。

それに異を唱える事を止めてしまえば、もう何も変わらない。


そういう気づきを与えてくれたKaoRiさんの記事に本当に感謝するし、また願わくば今回のことが、単なる「アラーキーバッシング祭り」みたいなことで終わらなければよいと思う。

何故ならば、それは、全ての写真家に翻ってくる事案を孕んでいるから。


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