EYESIGHT/INSIGHT - Photography blog by Keisuke Takahashi

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ほぼ二年近く、カメラを持たなかった。撮るときはiPhoneだけで、大したものは何も撮ってない。
一番大きな理由は、写真というもの、そしてそれを撮ることの意味が、今の世の中全く変わってしまって、写真で何かを表現したいとか、それをする意味とか、そういうものを全く見い出せなくなってしまったから。

なんだけど、ここに来て突然、ふつふつと写欲が湧き出した。と言って今の自分に何が撮れるのだろう。わからない。わからないけど気負わずリハビリしようかなと思う。

そんなリハビリパートナーに、自分としては五年ぶりくらいの富士フイルムのカメラを選んだ。中古のX100F。最新はX100Vだが、別に最新機種にことさら興味はない。ただ、さらに前のX100Tと比べてみたときに、フィルムシミュレーションにモノクロのACROSが入っているので、Fを選んだ、
数年カメラの進化を追わない間に、APS-CのX100Fでも、フルサイズの初代α7と同じ画素数になってるし、だったら単焦点35mmのカメラとして、全く問題ない。

以前、X-T1を買ったときに入手して、その後ずっとしまっていたacruの革ストラップも、丁度今の自分の気分にしっくり来るように思う。
今年、自分の新たな趣味となった自転車にまたがって、散歩しながらぼちぼち撮れたらいいな、と思う。

今年の夏に、父が亡くなったのと同じ年齢になった。これから先はどんな人生になるかな。


先日、富士フイルムの新しいカメラ「X100V」のプロモーションビデオが公開された。プロモーションには鈴木達朗氏が起用され、動画で明らかにされたその撮影スタイルが波紋を呼び、メーカーは動画を削除して謝罪、鈴木氏自身もツィッターを鍵アカウントにする、という事態になった。

僕自身、ストリートスナップを撮る人間でもある(あった)が、色々と思うところあり、写真から距離を置いている。その事とも大いに関係する出来事であったので、久しぶりに記事を書く。

まず、なぜ富士フイルムはこの動画で問題ないと判断したのだろう。
肖像権を巡って、ストリートスナップの是非はここ何年も議論されている。僕自身の個人的な結論は、ストリートスナップに(表社会での)未来はない、ということである。最早、ストリートスナップを撮ることは、一部では犯罪と断定されつつあるのだ。
勿論、現時点でそういう法律が新たに作られたわけではない。だが先々、この手の規制が厳しくなることはあれど、緩くなる事は最早、ないだろう。
そんな中で、カメラメーカーであり、ギャラリー等も擁していて、写真文化自体に詳しいはずである富士フイルムが、この動画を公開することで社会にどういう印象を与えるのか、想像も出来なかったのだろうか。まるで富士フイルムは、一連の議論にとどめを刺して、ストリートスナップを殺したかったのではないか、と思えるくらいだ。
そうではなくて、昨今の大手企業同様、非採算部門は人手が少なく、経験の少ないサラリーマン社員だけで仕事を回した結果がこれなのだろうか。あり得る話ではある。

そして鈴木達朗氏である。彼の写真は世界的に評価されている。その写真がどういう手法で撮られているのかは、あの動画を見るまでもない。遠慮なく言わせてもらうが「犯罪ギリギリ」のところで撮られているのだ。だからこそ評価されている。希少だからだ。
つまり彼のアートというのは、どう考えても「決して表社会に立てない」ものであって、国内で知名度を上げずに海外でやっている分には良いが、日本国内で今回のようなプロモーションがなされれば、どういう事になるのか、彼自身が気づいていないはずはない。なのに、何故この仕事を請けたのか。
それとも、そこまで考えが及ばぬほど生粋の馬鹿で、今までの撮影も全て「本能」のみに突き動かされて「たまたまセーフだった」成果なのか。

いずれも表向きは、一流のカメラメーカーと(あえて言うが)一流のストリートスナッパーだ。もしやるのなら、もう少し策を練って欲しかった。彼らは完全に、あらゆるストリートスナップの道を断ってしまったと言えるだろう。
アサヒカメラでは昨年何度か、ストリートスナップの肖像権に関して記事を組んでいたが、こうなってしまっては最早詭弁でしかないし、もし今後同じ特集を組んでも、犯罪幇助と取られかねないだろう。本当に残念だとしか言えない。

ストリートスナップの使命は、文化を後世に残す事にあると思っている。僕は「昭和の東京」とか、そういう写真集を見るのが好きだ。そこに記録された、当時の街並み、当時の人たちの暮らしぶり、豊かな表情。そういうものは、誰かが残さなければ、決して残らない。
昔は一部のお金持ちだけが、カメラを所有できた。写真家として名を残している人たちは、大概どこかのボンボンである。言ってみれば昔の記録写真というのは全て「上から目線」で残されたものばかりだ。アメリカが日本の統治後に町並みを撮った写真などもいい例だろう。
今はそういう時代ではない。
誰しもが写真を撮る。
殆どの携帯にカメラが搭載されているのだから、街にいる人たちの殆どがカメラを持っている。
そして街中でシャッター音が響いた途端に、通報する人が現れる。

一方で、街のあらゆるところに監視カメラが、車にはドライブレコーダーが備え付けられている。それらのデータはクラウドを介して集められる。それに文句を付ける人はいない。そこには人間の意図が介在しないからだ。そこに意図が介在することに、人は拒絶を示す。
将来のストリートスナップの写真集は、GoogleやAppleが編纂・発行することになるかも知れない。

何故、こんな世の中になってしまったのかといえば、テクノロジーを悪用する人間がいるからである。携帯やアクションカムやドローンで、盗撮を行う人間というのは間違いなく存在するからだ。
そういう人間のせいで、街中でシャッターを切る人間は全て「容疑者」となる。
市井の人間が、同じ市井の人間の「疑わしき」を罰する社会になってしまった。本当に悪事を働いている、例えば政治家のような人間は野放しなのに。

なんて嫌な社会だろう。写真に残す価値はあるのだろうか。僕はこの頃、本当にそう考える。

僕のような人間は、写真に距離を置くことで対応する。だが鈴木氏は逆であった。余計に社会と敵対する。彼の写真の根源にあるのは「怒り」だ。写真を見れば明らかだ。意図を伝えるのがアートの使命だとすれば、彼の作品はだからこそ一流のアートとして評価される。

なので余計に、何故今回の仕事を請けたのか、僕にはさっぱりわからない。こんなことになってしまった以上、彼がこれを続けることは出来ないからだ。もしかするとここいらで、誰かにストップをかけて欲しかったのだろうか。欲求というのはエスカレートするものだ。もっと、もっと、という気持ちが我々を動かす。ストリートスナップを撮ったことのある者ならわかるはずだ。
鈴木氏はアクセルを踏み続けて、止まるに止まれない状態だったのだろうか。そんな勘ぐりもしたくなる。

さて、それでもストリートスナップを撮りたいと思う人がいるのだろうか。はっきり言ってこれは裏稼業だ。表舞台には立てない。逮捕されるかも知れない。それでも価値があると思う人だけが、それをやることが出来る。頭がおかしいと思われようが、キモいと言われようが。
今や、そういう覚悟を持って取り組まなければ、ストリートスナップなど出来ない。

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先日、友人のうっちーこと内野知樹さん、そして岡紀彦さん、みのもけいこさんのグループ展「裏話のある写真展」を観に、埼玉の霞ヶ関駅そばのKalaftaさんへお邪魔しました。

お邪魔した日はたまたまご三方勢揃いで、各々と写真について色々お話しできてよかったです。

写真展に足を運ぶのが久しぶりで、皆さんと話しながら思ったのだけど、写真について感じたことは、ちゃんと言葉にした方がよいな、ということで、今回の感想を記事としてまとめてみようと思った次第です。


まず岡さん。

岡さんの写真は、色と構図のバランスがとても素晴らしかった。人の写真を観て「ああ、いいなあ」と感じたのは、物凄く久しぶりでした。ある1枚の写真について、あまりに素晴らしいのにプリントサイズが小さいな、と思って、僕ならこういう構図にしてこれくらいのサイズでプリントする、と意見させて頂きました。と言っても、自分の表現ならこうする、という話で、そうしなかった、というのが岡さんの表現であり、正解はないのだとは思うのですが、この写真に関しては、他の写真にはタイトルが付いているのに、これだけなかったり、岡さんの、この写真に対する迷いのようなものが垣間見えたので、思い切って言わせてもらいました。岡さんはインスタもやられていらっしゃるのですけと、この写真は上がっていないし、そしてこの写真は多分、プリントでないと良さが伝わらないと思います。なので出来れば皆さんに、実物を観て欲しいです。

ちなみに岡さんはイケメンで、イケメンでこの写真、という事実は、実は凄く(自分の中で)評価に影響しているのではないかな、と思ったり。というのは、岡さんがカメラ好きでずっと撮り続けている60歳くらいの人、だとしたら、これほど良いと感じたかな、と少し考えたからです。多分僕だけですね、すみません。とにかく物凄く巧いのでこの先、巧さに負けないといいなあと思いました。


次にみのもさん。

みのもさんはご近所の夕日の見える場所の写真を展示されていらっしゃって、金網越しの風景なのですが、プリントサイズが小さいものから大きいものまであり、純粋に1枚の写真として観た場合に、何故これが大きくて、何故これが小さいのかわからなくて質問させて貰ったのでした。何故かというと、展示されている写真には(みのもさんの作品に限らず全て)値付けがされており、物理的に大きい写真が高い値付けだったからです。すると、写っている金網のサイズがなるべく実物大になるように揃えた、という説明を頂いて、腑に落ちまして、それを聞いてから改めて観るとぐっと見え方が違ってきて、聞いてみてよかったと思いました。

たまたま、展示されている写真群とは別の写真群が置かれていて、そちらは、1枚1枚の写真としては展示されているものより個人的には良い写真だと感じたのですけど、お話を伺うと、たまたま仕事で広島を訪れた際に、少ない時間で撮られた写真なのだという。確かにそのような写真の場合、展示するテーマとしては弱いと感じるかな、というのは個人的にも理解・共感できました。ただ、今回の写真展が「裏話のある写真展」いうことだったので、そういう話も含めて、これを展示しても良かったのではないかな?と思ったのは事実。ただこれもやはり、正解はないのだと思います。


最後にうっちー。と呼ぶとちょっと失礼なので、以下内野さん。

内野さんの写真はいくつかのシリーズがあるのですが、例えば「武蔵野写真」という一連のシリーズについて言えば、写真1枚1枚にさしたる意味はないけれども、連続してそれを撮っていること、そしてそれらをまとめて展示すること、そこに意味が生まれる。対して「ほころぶ」というシリーズについては、もう少し1枚1枚に作品性があって、しかしそれらも、まとめて展示されたときにまた一つ裏の大きなテーマが見えてくる。そういう展示を、なんだかんだ定期的に続けていて、えらいなあと思うことしきりであります。ただひとつ思うのは、この表現の向かう先は何処なのだろう、ということです。

武蔵野写真はいくつかの定点での写真を撮り続けていて、恐らくそこに2019年、2020年の写真が加わっても、観ている方は気づかない。例えば、畑がマンションに変わって、いきなり定点のど真ん中にマンションが現れると、これは大きな変化であるけれども、ルポルタージュ的な意味が強くなる。まあ、そういうタイムレスなモザイク感を狙っているのかな、とも思うのですが、だとするともう殆ど完成しちゃっているシリーズなのかなと。畑をずっと撮り続けていて、リセットされた畑(そういうの何ていうんでしたっけ。語彙がないな)はあるんだけど、収穫の風景はあんまり無いな、とか、長年観てるとそういう内野さんの虚無感を垣間見たりしてるわけですけども。

他の人が真似できないほど長い間、撮り続けているアドバンテージ・強みはあるけれど、さて次は、というのが、長年内野さんの展示を観ていての、一個人としての感想です。これもまた、正解はないんですけども。


そんなこんなで物凄く刺激になったのであります。グループ展というのも悪くない。自分も、観る方が脳を揺さぶられるような、振れ幅の大きいグループ展をやりたいなあ、そう思いました。

Karafta でのこの展示、5/26(日)まで開催されていますので、この週末お時間のある方は是非足を運んでみて頂ければと思います。


Karafta 〒350-1101 埼玉県川越市的場2361−14


Karaftaさんは家具・雑貨のお店なので、オリジナルの可愛い縫いぐるみも売ってます(ターナーさん、って名前らしいです)。可愛くて思わず、自分も買ってしまいました。ファンシーおじさん。

店主が音楽好きで自作のギターを飾っていたり、あとBGMが個人的にツボで、デヴィッドボウイの”Quicksand”の外国語カヴァーとか、ザ・スミスの”The Headmaster Ritual”のカヴァーとかが気になって耳が行ってしまい、いやもう少し集中して展示観ようと思ったらブランキーの「脱落」が流れて観るどころでなくなったのは内緒です。


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ところでポストカードの発送、ちょっとお休みさせて貰っていてごめんなさい。写真止めたわけではないので、少しお待ちを・・・。

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